バルセロナから(2018年1月20日) : 1990年「南米ひとり旅」ブラジル、リオ「雨のカーニバル」
バルセロナから(2018年1月20日) : 1990年「南米ひとり旅」ブラジル、リオ「雨のカーニバル」
ブラジルに入り一旦リオ・デ・ジャネイロでカーニバルの観覧席の切符を買って、カーニバルの日まで一か月ほどアルゼンチンなどを廻っていた私は、再びブラジルに入り、楽しみにしていたリオのカーニバルの会場にいた。
カーニバルの休憩中に雨が降り出してきて、少し大粒の雨になった。観覧席の石段に腰掛けていた観客たちは、傘を広げたり、雨合羽を着たり、ビニールを被ったりして、それぞれ要領よく雨を防いでいた。私も、隣に座っていた見知らぬ家族にビニールを被せてもらい、カーニバルの次の出し物を待った。
そのうち小降りになり、カーニバルの行進が再開すると、観客たちは次々と傘を畳み始めた。それでもまだ傘を広げている席に人たちは、後ろの席から
「見えないぞ」という抗議の紙つぶてが投げつけられる。飛んで来る物は、紙コップが多いが、とにかく最初のうちは冗談を交えての攻撃だった。
だが、カーニバルの熱狂も手伝って、攻撃はたちまちエスカレートしていった。ユーモラスな掛け声は毒づいた非難に変わり、なかにはミカンの皮を投げつける人さえいた。
私のすぐ前で優雅に踊っていた奥さんも(人々はほとんど踊りながらカーニバルを見るのだ)、踊りながら周りに落ちている紙くずを投げ始めた。その楚々とした顔に笑みを浮かべたまま。
とうとう婦人用の傘一つだけ残して、前の席は傘が見えなくなった。その一つの傘めがけて、次々と非難の声と物が投げつけられた。やがて、最後まで頑張って傘を差し続けているその年配の婦人が、傘の横から指でOKサインを出したので、周りからも一斉に拍手と歓声が湧き上がった。
しかし、そのOKサインは、まだ傘を畳まない、という意思表示だった。怒った後ろの人々は、再び紙コップ等をその傘めがけて集中攻撃した。終いには、誰かが水やビールの入った紙コップをぶつけたものだから、その年配の婦人は傘を上げ、キッと後ろを睨みつけて、依然として傘を広げたまま頑張った。
そのうち本当に小降りになり、非難の声と紙つぶての攻撃に降参した格好で、彼女もようやく傘を閉じた。
強力なリズムの中で、カーニバルの行進は延々と続く、人々は踊り続け、夜の帳(とばり)もここだけには降りないようだ。人々は、一年間溜めておいたエネルギーのすべてをこの日に燃焼し尽くす。
地元の人が言うリオ・デ・ジャネイロの「リオ」は、よそ者が聞くと、ほとんど「ヒーオ」としか聞こえない。ここでのRの発音は、喉笛を鳴らす感じなのだ。カーニバルが終われば、また冷たい雨が体の芯まで沁みる現実に戻らなければならない。
夢から覚めるのを惜しむように、「ヒーオ、ヒーオ」と祭りは翌朝まで続く。