日本語教育・日本語そして日本についても考えてみたい(その2)

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バルセロナから(2018年9月30、10月1日) : 助詞【が】から見える日本人の感受性

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バルセロナから(2018年9月30、10月1日) : 助詞【が】から見える日本人の感受性


「雨【が】降る」「塀【が】高い」における【が】のように、動作・作用・状態の主体を指し示す格助詞を用いた表現は、一般的には江戸時代以降に広まり確立したと言われている。


この【が】の出自は、「我【が】国」の【が】のように所有格として用いられて来たものである。いわば「主体を指し示す【が】」はガ格の新参者である。


「私は彼女【が】好きだ」の文においては、感情を「好きだ」という状態にさせる「生起主」は「彼女」であるから「彼女」に「主体を指し示す【が】」が付いているのだが、感情主は「私」ということになる。


「私はこの町【が】淋しい」は「私にとってこの町は私を淋しく感じさせる<生起主>だ」ということであり、同様に「私はこの仕事【が】つらい」は「私にとってこの仕事は私をつらくさせる<生起主>だ」ということになる。


日本語母語者の「人為的なものよりも自然の営みから生起するものを畏敬・畏怖する傾向」は、文における述語の「動作・作用・状態の主体を明確にすることよりも、その動作・作用・状態を自然的な生起として把握する」ことに関心が向けられる。


「仕事【が】出来る」の「出来る」とは「仕事」そのものが「出て来」てその姿を現すのであり、「仕事【が】気に入る」の「気に入る」とは「仕事」自体が感情主の「気に入(はい)ってくる」のであり、「山【が】見える」の「見える」も「山」自らが感覚主の「視界に入ってくる」という感受性から来ている。


そして、「私は彼女【が】好きだ」とは、「彼女」の存在が感情主の感情を「好き」という状態にさせる、つまり「彼女」が「生起主」、と捉えるのが自然である。


この視点の源泉は、上に述べた「日本語母語者の感受性の変わらぬ傾向」にあるのだろう。


写真は、北斎の浮世絵。自著の英語版の表紙として用意している。北斎は日本の画家の中でもっとも好きな画家だ。

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