日本語教育・日本語そして日本についても考えてみたい(その2)

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バルセロナから(2018年1月17日) : 1990年「南米ひとり旅」ボリビア、 ラパスに雹(ひょう)が降る

バルセロナから(2018年1月17日) : 1990年「南米ひとり旅」ボリビア、 ラパスに雹(ひょう)が降る



プーノでひいた風邪は、ボリビアのラパスに入ってからも抜け切れないでいた。


 明日が新年というその日、私は穏やかな日差しに誘われてラパスの町を散歩し、昼食を摂るため手ごろなレストランに入った。標高三千メートルを超えるという土地柄もあり、コカの葉を浮かべたお茶は高山病対策として常飲されているらしい。定食を済ませたあと、地元の人に倣い私も注文してみた。風邪への効用も期待していたのだ。



 その夜、私は急な坂道を下り、フォルクローレを聴かせてくれるペーニャに入った。薄暗い店内を案内されてテーブルに着いた私は、サングリアの入った細長いコップを傾けながら、ふと向かい側のソファに何やらうごめいているものに気を引かれた。誰かが横になっているらしい。その隣には夫婦と思われる若い二人がいた。日本人である。女性がソファに横たわっている人物に声を掛けた。「大丈夫?お父さん」



どうやら父と娘夫婦で観光旅行に来て、父親は高山病にやられたらしい。やがて客席が埋まっていき、国際色豊かな会話が飛び交う。好奇心と期待の入り混じった雰囲気の中で、演奏が始まった。こぢんまりとした店内では、客席に囲まれたわずかな空間がステージとなる。ソファの紳士は横になったままである。



ボリビア独特の衣装をまとったグループが、南米のフォルクローレの名曲を次から次へと憑かれたように演奏し続けた。そして、心地良い興奮の中で最初のメンバーが交代し、日本にも知られた国宝級チャランゴ奏者が紹介された。



すると、あの日本人の若夫婦が頓狂な声を挙げ、大袈裟に手をたたき出した。今まで死んだように横になって四人分の席を独り占めしていた老紳士もむっくりと身体を起こし、重そうなカメラを構えると、“ボリビアの至宝”目掛けてフラッシュを焚き始めた。思ったように撮れないらしく、さかんに首をひねりながら論紳士はフラッシュを焚き続けた。隣の若夫婦も、別のカメラで負けじと強烈な閃光を演奏者たちに浴びせていた。“ボリビアの至宝たち”は、無作法な光の攻撃に当惑しつつも見事な演奏を続けた。



しかし、他の客たちは、明らかに不快の念を顔に表していた。その日本人父子の席をにらみ付け、中には身体を伸ばして覗き込む人さえいた。ところが、当の父子は、周囲のそんな雰囲気など一向に気付かないようだ。



やがて演奏が終了した。この間、日本人父子は少なくとも三十回以上はフラッシュを焚き、一方、他の客席からは演奏の合間に二、三度遠慮がちにシャッターの音がしただけだった。私は、素朴で質の高い演奏を堪能はしたものの、心のどこかに憮然とした、やりきれない気持ちを抱いたまま席を立った。



店を出ると夜空に暗雲が立ち込め、ポツリポツリと降り出した。私は急な坂道を走るようにして上り、ホテルの部屋に戻った。


その直後である。もの凄い音が天井に響いてきた。私は窓のカーテンを開け、暗いラパスの空を見た。雹(ひょう)である。大粒の雹が容赦なくラパスの町を叩き付けていた。



あの坂道に小さな敷物を広げ、リャマの子のミイラを売っていたインディオのおばさんは、どこかに避難できただろうか。路上でミカン箱に座って店番をしていた子供たちは、どうしただろうか。トタン屋根を激しく打ち鳴らし、道という道を穿(うが)ち尽くさんとする白い雹の突き刺さる闇を覗きながら、私は、あの日本人父子が高価なカメラを庇(かば)い、雹にめった打ちにされているような気がした。



やがて雹が降り止み、嘘のように黒雲が消えていった。私は窓を開け、冷たく薄い空気を胸に入れた。


 澄み渡った夜空に、新年を祝う花火があちこちから上がり始めた。

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