日本語教育・日本語そして日本についても考えてみたい(その2)

本ブログ(その1)は ☛ http://urgell.blog62.fc2.com/ をご覧下さい。

バルセロナから(2018年1月18日) : 1990年「南米ひとり旅」チリ、ピノチェト軍政下サンティアゴの長い夜

バルセロナから(2018年1月18日) : 1990年「南米ひとり旅」チリ、ピノチェト軍政下サンティアゴの長い夜



メキシコを発つ際、「住むならチリがいい」と頻りにチリ人の国民性を褒めていた人がいた。チリでなら金銭を渡すとき、掌にそれを無造作に広げて差し出しても決して余計にはとらないだろう、と言うのだ。それが本当なら、しばらくチリに住むのもいいかもしれない。結構きつい旅を続けて来たせいか、私はかなり疑い深くなっていたからだ。人を丸ごと信じる日々があってもいい。


  


アルゼンチンのサン・カルロス・デ・バリロチェからバスでチリのプエルト・モンまで抜け、そこからサンティアゴ行きの夜行バスに乗った。このバスは乗客数を十数名に限り、車内のサービスを飛行機並みにしたサロン・カマと呼ばれる特別仕立てのものだった。リクラインシートはほぼ水平にまでなり、バスであることを忘れさせてくれるほど揺れがなかった。チリの細長い地形をひたすら真っ直ぐ北上して、翌朝十時ごろ、サンティアゴに着いた。



 こうして気持ちの良い都入りをしたせいもあってか、チリ人の印象は私の期待を裏切らなかった。人懐っこさは他の中南米の人々と変わりはないが、その一方、静かに何かに耐えようとしている不思議な魅力も感じられた。



この頃のチリは、まだピノチェトの軍政下だった。私はガルシア・マルケスの本を一冊リュックの底に入れて、チリ入りした。これは、チリの反軍政派の映画監督が戒厳令下の自国に潜入したときの体験をマルケスが聞き書きしたものだった。チリ入国の際、この本が見つかるかもしれない、ということが私を妙にわくわくさせた。



だが、すでにチリ国内ではピノチェト政権は幕を閉じようとしていた。民政化への準備が着々と進められていたのだ。時代の流れに抗しきれず、さすがの独裁者も第一線から身を引く決意をしたようだ。



ある夜、私はアウマダ通りを散歩してみた。もう十時を過ぎていた。


この通りは言わば地元の人々の憩いの場所で、フォルクローレのグループの歌声が響き、露店商人たちが道に風呂敷にわずかの品物を並べていて、通行人の目と耳を楽しませてくれる。一見穏やかに見えるこの風景も、よく耳を澄まし、目を凝らしてみると、そこに緊迫した何かが感じ取られてくる。



チリの紺碧の夜空を突き抜けるようなケーナやサンポ―ニャの澄んだ音色が途切れた時、人々の激しい議論が聞こえてくる。決して声高ではないが、激しい調子で政情を論じていたのである。



露店商人たちが売っている品物も、社会主義政権時代のアジェンデやキューバの革命の英雄チェ・ゲバラの肖像画、反体制歌手でクーデターの際捕らえられ殺されたビクトル・ハラのカセットなどが並び、チリの民政化への流れはもはや抗しがたいことが、私のようなよそ者にも見て取れた。



露店を冷やかしながらしばらくアウマダ通りを歩いていると、遥か向こうの暗闇から鋭い声が聞こえた。すると、それを合図に露店商人たちの様子が一変した。


 彼らは口々に「パサンド、パサンド!」(来たぞ、来たぞ)と仲間に伝えながら、広げていた品物を素早く風呂敷ごとくるみ、通りのわきに寄った。アウマダ通りは、あっという間に深い沈黙の闇に姿を変え、誰もが息を殺して事態を見守った。



最初の合図は、警察当局の取り締まりを仲間に知らせたものだった。結局、何事もなく、露天商人たちは再び風呂敷を広げ、品物も元のとおり一つひとつ丁寧に並べ直した。フォルクローレの演奏が再開され、政治談議をする人々の輪がいつの間にか又できていた。



私は、明けるのをためらっているかのようなサンティアゴの深い夜空を見上げた。仮に民政に移管されても、その大統領はピノチェト将軍の傀儡(かいらい)に過ぎない、という噂も耳に入ってきている。私は、この国の人々の、何かに耐えているような表情の意味を、ぼんやりと分かりかけていた。



それから一年も経たないうちにヨーロッパではベルリンの壁が無くなり、ソビエト連邦の崩壊が始まった。チリの人々は社会主義への夢を砕かれたかもしれない。権力者による国の私物化と貧困に苦しめられ続けて来た中南米の人々は、これからどんな夢を見ることが許されるのだろうか。



私は、あの夜のサンティアゴの深い闇を今でも不意に思い出すことがある。



写真は、チリとアルゼンチンの両国に渡るパタゴニアに在るペリート・モレノ(褐色の子犬)氷河の崩落の轟音(ごうおん)を背で聞きながら。

×

非ログインユーザーとして返信する