日本語教育・日本語そして日本についても考えてみたい(その2)

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バルセロナから(2017年12月20日) : ニューヨークのクリスマスの光と影

バルセロナから(2017年12月20日) : ニューヨークのクリスマスの光と影


1988年の12月、スペイン、マドリードでの生活に一応の区切りをつけて、私はメキシコに向かった。メキシコ自治大学で研究生活に入り同時に中南米ひとり旅の準備をするためである。途中、ニューヨークに立ち寄り、しばしの息抜きをするつもりでいた。折しも、ニューヨークの街はクリスマスツリーの灯りに映え、眩(まばゆ)いばかりであった。
 明日がイブという日、私はニューヨークをバスで廻る市内観光のツアーに個人参加してみた。ツアーバスの車内を見回すと、他は韓国の団体客らしい。日本人は私一人だった。やがて、初老の運転手が乗り込んで来て、ユーモアたっぷりの挨拶をした。典型的なアメリカの誇り高い紳士という印象だった。
その紳士が観光絵葉書を両手にかざし、にこやかに宣伝し始めた。私も買うことにしたが、あいにく大きな額の紙幣しか持ち合わせていなかった。紳士は絵葉書セットを私に渡し、私の手からその紙幣を素早く彼に手に移し替えると、
「お釣りができたら渡すよ」
と言って、車内の他の客に売りに廻った。
しばらくすると、紳士は私の座席の前に戻り、お釣りを数えて私の掌に返した…かと思うと、別の紙幣と取り替えた。まるで手品師のように、その行為を繰り返した。明らかに釣り銭を誤魔化そうとしていた。
 案の定、私の掌には不当な金額が残った。事は額の多少の問題ではなかった。車内では日本人が私一人であることに付け込んだ卑劣な行為であった。私はその“手品師”に釣り銭の額の不当性を訴えた。すると、“手品師”はアメリカ紳士の仮面をかなぐり捨てて、昂然と彼の正当性を言い返してきた。私と彼との押し問答の中、私の後ろの席にいた一人の若い韓国人女性が“手品師”に言った。
 「残りのお釣りを渡しなさい。私の母がすべてを見ていました」
 有無を言わせぬ、毅然とした物言いだった。彼女の母親が私の斜め後ろの座席で初めから全部見ていて、彼女に話したのだ。思いがけない彼女の気迫に気おされたのか、昂然としていた“手品師”もしぶしぶ残りの釣り銭を出した。
ニューヨークの一日市内観光も終わりに近づいた頃、同じツアーメンバーの年配の韓国人男性が私に話しかけてきた。
 「あのアメリカ人、悪い人だね。気をつけなければいけない。日本人、いい人多いよ」
 日本語でぽつりぽつりと話し続けた。私は「ありがとう」を繰り返すばかりだった。
 私はマドリードの大学での討論形式の授業を思い出していた。その日のテーマは<人種差別>だった。私のような黄色人種も黒人もいる中でのスペイン語での討論だ。日本ならば、まず避けるテーマだろう。アフリカからの不法移民も含めて、ジプシー(近年、日本ではロマと呼ぶらしい)や有色人種の移民の多いスペインでは、包み隠さず最重要のテーマとして取り扱う。その授業の中で、「日本人には韓国人差別問題が存在していると聞いているが、どうなのか」というスイス人学生の質問に、私は歯切れの悪い説明しかできなかった。このことを思い出していたのだ。
 「日本人、いい人多いよ」
ツアーが終了し、バスを降りてからも、あの年配の韓国人男性の日本語が、私の頭を離れなかった。彼があの日本語を習得した事情が暗い歴史の産物なのか、は知る由も無い。だが、極東から来た黄色いアジア人同士が、世界のリーダーを気取る異国の地で無意識のうちに連帯し、傲慢な白い“手品師”にひとあわ吹かせた、という気持ちを私たちは共有していた。
 顔を上げると、いつのまにか陽は傾いていた。黄金色に輝くニューヨークの街には、刺すような冷たい風が吹いていた。私は前を向くと、煌(きら)びやかなイブのニューヨーク街を又ゆっくりと歩き始めた。
 写真はニューヨークのロックフェラーセンターのクリスマスツリー。私のニューヨークの印象はこの眩い光と冷たい影の入り混じったものであった。

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