バルセロナから(2019年7月4、5日) : 『日本人のエッセンス』(La esencia de los japoneses) (3)「日本というシステム Ⅱ」
#Barcelona #オリジナルエッセイ(Ensayo original) #La esencia de los japoneses #自由の女神(la Estatua de la Libertad)
(*Les agradecería si pudieran comentar sobre mi ensayo original.)
バルセロナから(2019年7月4、5日) : 『日本人のエッセンス』(La esencia de los japoneses) (3)「日本というシステム Ⅱ」( Un sistema llamado Japón Ⅱ)
"La esencia de los japoneses" -¿Quién es japonés? -
(1) Un sistema llamado Japón
Ⅱ
El eslogan “lee el aire" puede ser una de las malas sabidurías que esa sociedad cerrada ha creado en los últimos días. No es extraño en absoluto que digas o hagas algo mientras consideras a los demás en ese momento. Pero el contenido del reciente "lee el aire" es que todos estén conscientes de que "sigue el aire".
Ogai Mori y Soseki Natsume, los principales escritores literarios de Japón, que confrontaban y luchaban por primera vez en Japón con el concepto intrigante del ego y la subjetividad occidental sufrieron las dificultades. A pesar de sus esfuerzos agotadores, aún no se puede decir que la sociedad japonesa de hoy en día haya desarrollado un sistema que verdaderamente hace felices a las personas.
Bueno, si te preguntas cuánto tiempo dejaremos nuestra corta vida a ese ‘sistema que no incorpora la felicidad humana’, la respuesta debería ser naturalmente clara. 『日本人のエッセンス』 ‐ 日本人とは何者なのか ‐
(1) 日本というシステム
Ⅱ
昨今のはやり言葉「空気を読め」というのも、この閉塞社会の生み出した一連の悪しき知恵の一つなのかもしれない。その場の空気を読んだ言動をするのは、ちっとも変なことではないが、昨今の「空気を読め」の中身は、「空気に従え」であるのは誰もが気づいているのではないだろうか。
西洋の自我、主体性という得体の知れない概念に初めて対峙し、もがき苦しんだ鷗外や漱石などの先達の奮闘努力にもかかわらず、今日の日本社会はいまだに人間を真に幸福にするシステムを開発できているとは言えない。
さて、この「ヒトを幸福に組み込まないシステム」に我々の短い人生をいつまで委ねているか、と自問すれば、答えは自ずから出るはずである。
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写真(la foto)は、ニューヨークの「自由の女神」(la Estatua de la Libertad)をバックに。
「自由」(la libertad)という概念も日本人になかなか理解し難いものだった。日本語訳は仏教語から引っ張ってきた。「自(みずか)らに由(よ)る」(Por uno mismo)、つまり「自分の言動は自分自身を根拠としていてその結果として何が起きてもその責任は自分にある」
という釈迦の教えを取り入れた訳語であった。
因みに、古英語を辿ると、「成約されないこと」(Liberty)、「愛、好み」(Freedom) となる。
日本語訳「自由」はいかにも律儀な国民性が反映されている。ひょっとすると、日本人は「自由」の後ろに控える「責任」の影に未だに怯え続けているのかも知れない。
西洋からの新しい言葉として日本で広まったのは福沢諭吉の『西洋事情』(1866)のようだが、「自由jiyuu」という言葉自体はすでに『徒然草』(Tsurezuregusa. 1330)に「よろづ自由にして、大方、人に従うといふことなし」とあった。