日本語教育・日本語そして日本についても考えてみたい(その2)

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バルセロナから(2017年12月10日) : 日本語はどのように変化していくのか、を考える(その5)<写真: 黄昏れる冬の地中海にいざなわれる>

バルセロナから(2017年12月10日) : 日本語はどのように変化していくのか、を考える(その5)<写真: 黄昏れる冬の地中海にいざなわれる>



考えてみると奇妙なことだが、日本では母語である日本語を学校教育で体系的に教えられていない。言葉は自然の流れに任せるべきで触ってはいけない、という言語観が歪んだ形で現代日本社会の底流に流れているのだろうか。


 学校で教えてくれない。親も、言葉に触ることを躊躇する。では日本人は何を頼りに日本語を喋り綴っているのだろうか。


 現代日本では一般日本人はマスメディア、とりわけテレビの影響が大きい。
日本のニュース番組を見ていると、あるスポーツ選手がインタビューに応えて「目にウロコ、じゃないですけど…」と言う。最近とみに聞く表現である。


「~じゃないですけど」という言い回しである。「目にウロコでした」と肯定形で言わずに「目にウロコじゃないですけど…」と、せっかく例えようとした「目にウロコ」を「じゃないです」と否定し、更にそれに「けど」を加えて「そうではあるけれど」の逆接の表現にしてから、ようやく本題に入る。


なぜそんな間怠(まだる)っこしい言い回しを最近の日本人は好むのだろうか。
これから自分が話すことが「目からウロコ」という表現にぴったり当てはまると言い切れるほど自信はないが…と予防線を張っているのか。


とにかく、できるだけ断言しない、しかし、何か気の利いた表現は使ってみたい、といったところか。母語である日本語に対する極端な臆病さが、笑えない「まだるっこい言い回し」となっているのだろう。


こうした傾向は若年層ほど目立つ。日本語に自信を持てない日本人が増えれば増えるほど、日本語自体が曖昧な言語だと誤解されやすくなる。日本語に罪があるのではなく、日本人への母語教育にこそ目を向けたほうがいいだろう。


さて、今日の写真は、バルセロネータの海岸。黄昏れる冬の地中海にいざなわれて岩場に立ってみた。

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