日本語教育・日本語そして日本についても考えてみたい(その2)

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バルセロナから(2017年12月27日) : 1989年トルコ、イスタンブール「ガラタ橋に陽が落ちる」

バルセロナから(2017年12月27日) : 1989年トルコ、イスタンブール「ガラタ橋に陽が落ちる」


そのとき、私はイスタンブールのガラタ橋を渡っていた。ボスポラス海峡の小さな入り江、ゴールデンホーンに架かっている弓なりの橋。新市街と旧市街を、人々はこの橋で行き来する。
 私はガラタ地区の市場の雑踏を逃れ、新市街から旧市街へ、ゆっくりと足を運んでいた。地球をなぞるように弓なりになったその橋を、私は落ちてゆく夕陽に向かって歩いていた。振り返ると、モスクが暮れなずむ新市街を抱くようにしてそびえていた。私は再び夕陽に向かい、前に歩を進めようとした。
ふと目を遣ると、向こうからリヤカーがゆっくりと降りてきた。その弓なりの橋のなだらかな傾斜に甘えるように、長い影を前に落として、悠然とこちらに近づいて来る。
リヤカーの上には首がひとつ乗っていた。それは若い男の首で、沈もうとする夕陽の黄金色の光を背に、褐色に輝いていた。その首は、獣のような鋭い眼を周囲に向け、やがて微かに笑った。そして、リヤカーを押している男に何やら快活に話しかけた。私はもう一度確かめたが、やはりそれは一個の首で、その下は黒い布がわずかな肉塊を覆っていたが、四肢は無かった。
 私とその首が擦れ違うまでは、ほんの瞬時だったはずだが、私はその首のすべてを見、同時にこの世のすべてを見た、と思った。私はそのまま橋の真ん中まで歩を進め、そこで足を止めた。
ここから先は弓なりの傾斜を下るだけである。振り返ってみたい衝動を辛うじて抑え、私はまた歩き始めた。振り返ることは許されないことだ、と思えた。夕陽に照らされた首の後ろ姿を見ることは、あの世を覗くことであり、その瞬間から私の両目は潰れてしまうに違いなかった。
ガラタ橋の残り半分を、私は沈みかけた夕陽に吸い込まれるように降りて行った。黄金の夕陽の中に溶けてゆく自分を感じながら、今見た首の残像を反芻(はんすう)していた。風邪を泳いでいた漆黒の髪……地獄の果てまで見尽くしてきた眼……言葉の無意味さを知り尽くした不敵な口元……そして、ただ存在するだけで世界の醜悪さを告発している、やや右に傾いた首。
その喉元に巻かれた黒い布は、その下の肉を隠してリヤカーの上に小さな塊をつくっていた。四肢は無くても、そこには生きるための最低限の器官が覆われていたはずだ。彼こそは神に選ばれた者なのか。
あの首はもう新市街に着いただろうか……赤紫の夕陽に染まった首が厳かにモスクに迎えられる情景を思い浮かべながら、私はようやく最後の一歩をガラタ橋から離して、旧市街に辿り着いた。


イスタンブールは不思議な魅力に溢れていた。アジアとヨーロッパの接点であり、四世紀から東ローマ帝国の首都コンスタンチノープルとしてビザンチン文明の中核を担った。そして、十六世紀には、アジア、アフリカ、ヨーロッパの三大州にまたがってその勢力をほしいままにしたオスマントルコの首都として君臨した。
ここは東洋でも西洋でもない。妖しい魅力に満ちたイスラム世界の入り口である。
トルコの旅から数年後、当時、ユーゴスラヴィアでボスニア・ヘルツェゴビナ戦争が泥沼化していた最中(さなか)に、私はこの短文をまとめた。それから更に数年経ち、同じユーゴスラヴィアで今度はコソボ戦争が出口を見出せないでいる中で、この文章がまた鮮明に浮かんで来たのである。意外にも、この心象文が実際に目にしたものを描きながら、民族浄化あるいは覇権主義への誘惑に抗しきれない現代社会に対する、私の遣り切れない心の陰翳が隠喩として翳を落としていることに気づかされた。
 同時代のこうした戦争を耳にするたびに、私は欧米主導の価値観で進められて来たこの現代世界における日本の役割を、幾度か考えたことがある。進むべき方向を見失いつつあるこの時代に世界は苛立ち、新たな価値観を模索している。
かつてのイスタンブールとは立場を異にしているが、もはや東洋でも西洋でもない日本。徹底した平和主義と東西の架け橋として試みてきた日本の独自の歩みは、行き詰まりを見せている現代世界に進むべき道筋への重要な示唆を与えられるのではないか、という思いが私の中で日に日に確信を持ち始めている

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