日本語教育・日本語そして日本についても考えてみたい(その2)

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再びの欧州ひとり旅(20日目。2017年7月20日) : ポーランドからドイツに入り今回の旅のテーマ「ベルリンの壁崩壊の1989年とは私にとって何だったのか」を自問する

再びの欧州ひとり旅(20日目。2017年7月20日) : ポーランドからドイツに入り今回の旅のテーマ「ベルリンの壁崩壊の1989年とは私にとって何だったのか」を自問する



ポーランドのアウシュヴィッツ強制収容所記念館からドイツのベルリンへ鉄道で移動。



ポーランドの国境沿いまでは順調だったが、そこから列車を乗り換えドイツへ入るまでがなかなかの遅滞だった。2時間でベルリンに着く予定が4時間近くかかった。日本だったらニュースになるような遅延だが、英語の説明もなく、おまけにバス、電者、地下鉄、と乗り換えしなければならなかった。私はそのつど他の客に確認しながら付いていくだけだった。


さて、ベルリンの壁崩壊の記念場所を訪れるのが今回の旅の重要な目的の一つである。
記念場所はフリーで見られるようになっていた。1989年の夏、私が東ベルリンから壁の脇を通り地下鉄で西ベルリンの駅へ降り立ったとき、東西に離れ離れに住む人々があちこちで抱擁し泣いていた。あの夏はまだ東西を隔てる壁が厳然と存在していた。そうした感慨が私の中で言い尽くせぬ感情を引き起こすのを感じた。


 私も今回の欧州の旅は、ベルリンの壁崩壊の1989年とは私にとって何だったのか、というテーマが底を流れていた。


29年前の「欧州ひとり旅」ではまだベルリンを東西に分ける壁が存在していた。あの日、私は東ベルリンから地下鉄で西ベルリンに抜けた。地元の人々には東西ベルリンの行き来が困難を極めたが、観光目的の旅行者には拍子抜けするほど簡単に移動できたのである。あの旅を終えてメキシコに戻り、すぐに北米の旅、すなわちアメリカとカナダをグレイハウンドのバスで回った。そのあと3ヶ月の南米の旅へ出発するのだが、北米の旅から戻って来たときに、その年の11月にベルリンの壁が崩壊したことを知った。


この欧州一周の旅は1989年の夏で、ベルリンの壁が東西ドイツ市民によって破壊された 「ベルリンの壁崩壊」が起きたのは、まさにこの年の11月10日だった。 


そして、壁崩壊からわずか一か月後にはアメリカ合衆国とソビエト連邦との間で、
「冷戦の終結」宣言が発表された。
思えば、このあとも、世界歴史の変動が怒涛のように繰り広げられたのだった。
1990年10月3日、東西ドイツの統一が実現し、
1991年8月20日にはバルト三国が独立、そして、
1991年12月25日にはソビエト連邦が崩壊し、
世界に新たな歴史のページが開かれたのである。 
私はこれらの世界を変える歴史的な出来事を、ヨーロッパとアメリカ大陸で体感していたのだ。
なんという歴史の変動だ、と、目の前で変わる世界を、私はとてつもない世界の希望として実感していた。
ともかく、私の欧州の旅は、世界の歴史的変動の始まるその年の直前に、その蠢動も知らずに偶然に敢行したのだった。
とりわけ、社会主義国としては最後の体制だった東ヨーロッパの国々を廻ることができたのは、なんと幸運な、素晴らしい旅だったか、とつくづく自分の幸運さに感謝する。


そういう意味では、ベルリン再訪問でこの「再びの欧州ひとり旅」は一応一区切り付いた。何か言い知れぬ安堵感が私の中で広がっていた。
1989年を巡る、心の旅、とも言える。


さて、この後は、ドイツからオーストリアを抜けて、イタリアに戻る。

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