日本語教育・日本語そして日本についても考えてみたい(その2)

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バルセロナから(2017年10月29日) : 反省のない日本のマスコミとコメンテーターたちを憂えながら紅葉をまとうサグラダ・ファミリアに見入る

バルセロナから(2017年10月29日) : 反省のない日本のマスコミとコメンテーターたちを憂えながら紅葉をまとうサグラダ・ファミリアに見入る



日本のマスコミはお粗末だなあ。


 外から見ると日本の弱点がよく分かる。よく指摘されることだが「日本のジャーナリズムの未熟性」はその分かりやすい点の1つだろう。



2016年度の日本の「報道の自由度」は180国中72位であることに、日本国内からは納得できないと言う声があるが、外から客観的に観ると、なるほど、と肯ける。


先日の衆院総選挙の日本のマスコミの報道は体制側権力側のチェックというジャーナリズム本来の役割を果たすどころか、国政に参戦した女性都知事へのマスコミ一丸となっての「魔女狩り」はじつに分かりやすい例である。記者の発した「排除」という言葉をオウム返しに使った都知事をマスコミはそれっ、と一斉に執拗に責め、彼女の人格攻撃まで展開した。実質的に精神的な集団暴力であった。まことに未熟で醜いマスコミの付和雷同による魔女狩りだった、と言えよう。


あの日本の戦争突入時に日本のマスコミが犯した過ちへの反省が形ばかりのものだったのと同様に、今回の総選挙に際しての女性都知事に対する異常な吊し上げ行為への反省は、今の時点でも全く伺えない。マスコミに情緒的に煽られた世論の動向に乗って都知事への「集団暴行」を加速させた名ばかりのコメンテーターたちも同罪だろう。今回の総選挙時とその後の報道を観ていて日本の「マスコミ」と「コメンテーター」の未熟性と幼児性を改めて感じざるを得なかった。そして、自分たちの醜い言動に反省のそぶりさえ見えない。とても「ジャーナリズム」とは呼べないだろう。


そんな憂いを拭おうと、今日の散歩ではガウディ広場の池の縁に座ってアーモンドの木の赤紫の葉をまとったサグラダ・ファミリアにしばし見入った。

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