日本語教育・日本語そして日本についても考えてみたい(その2)

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バルセロナから(2018年11月5、6日) : 「私(は/が)田中です」の根本的相違

#スペイン #バルセロナ #日本語 #助詞ハとガ #モンゴルのゲル


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バルセロナから(2018年11月5、6日) : 「私(は/が)田中です」の根本的相違


「が」と「は」には、前回述べた違い、即ち、

(1)格助詞「が」はその前に置かれている「主部」に注目させ、

係助詞「は」はその後に置かれている「述部」に注目させる。


に加えてもう一つ重要で基本的な違いがある。


それは、

(2)「が」は動作・存在・状況の「主体」を表す。文の構成ではそれを「主語」(広く言うと主部)と呼ぶ。

それに対して「は」は「主題」を示す、という違いである。 「は」が示す「主題」とは、話し手が話そうとする話の「テーマ」である。


すなわち、

「私《は》」は「これから私《に関して話します》」「私《について言えば》」ということだ。


だから、「は」は、構造上ではあたかも主語を示すように見えても、文法的には必ずしもいつも主語を示すとは限らない。


例えば、

「この本《は》、きのう買った」

という文では

「きのう、この本《を》買った」

ということだから、「この本」は主語ではなく、直接目的語なのである。


「が」「は」の性格の違いを観るには、先に説明した(1)とともに、

「《が》は「主語」を示し《は》は「主題」(テーマ)を示す」


という本質的違いを確認しておく必要がある。


「私《は》田中です。」という文では、「は」は「田中です」という「述部」を引き立たせる役目を持っている。


一方、「私《が》田中です。」という文の「が」は、「私《が》」と言った段階で聞き手はすでに「主部」に興味を引かれている。つまり「が」は紛れも無い主格の格助詞で、「が」の前に置かれた「主語」、ここでは「私」を強く意識させる。


確認しておくと、

「は」が、ある事柄や物をいくつかの中から「取立て」たり、二つ以上のものを「対比」させたり、すでに知られたことを示す「旧情報」であったりする側面は、上に挙げた本質から出てくる表面上の傾向にすぎない。


言わば、上にまとめた(1)(2)で指摘した「は」の本質的根本的性格、の枝葉に過ぎないのである。


そもそも、「は」の前に置かれる「主題」はさり気なく挙げるもので、主役はあくまでも「は」が掛かる「結び」である。


すなわち、「私《は》田中です。」の「田中です」の部分に聞き手の意識が来るようになっているのである。


すでに述べたように、自己紹介する場合、「私は田中です」の「私は」はないほうが日本語の表現らしいし、言ったとしても、控えめに、さり気なく、言うのが日本語である。そこが「主語」に注目させる「が」との大きな違いなのである。


写真は、モンゴルで泊まった移動住居「ゲル」の前で。また旅の虫が疼きだしてきた。

モンゴルの大草原を騎馬で疾走した旅が最高だったなあ…とか、セビージャから徒歩のサンティアゴ巡礼がいいか…とか、想っただけでワクワク。

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