日本語教育・日本語そして日本についても考えてみたい(その2)

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バルセロナから(2018年10月6、7日) : 日本人の「自然への畏怖」が日本語を解く鍵

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バルセロナから(2018年10月6、7日) : 日本人の「自然への畏怖」が日本語を解く鍵


日本語のガ格は、後で述べるように、英語などで言う主格とは性格を異にする。


「彼【が】彼女【が】好きなの【が】問題だ。」 という日本語文について、この文題のままでいいのか?という前回の宿題を片付けよう。


まず、現在の共通語では「好く」という動詞が衰退したために、「好きな」を動詞のように扱ってしまっているのが、そもそもの混乱の原因になっている。


動詞「好く」の丁寧形「好きます」に違和感を感じない人は少ないだろう。


また、「好む」という動詞は、たとえば《賭け事を「好む」》ならば違和感はないが、《彼女を「好む」》では明らかにそぐわない。


したがって、文法的充足を得つつ、文脈や情況の設定無しに誰が誰に対して好意を持っているのかを明確にしたければ、前回①の検証で得た《【を】好きだと「思う」》を用いて解決するしかなさそうである。


つまり、「彼が彼女【を】好きだと《思っている》のが問題だ」ということになる。


もっとも、今日では感情主「彼」と見かけ上、その感情が向かう先である対象「彼女」を明確に区別するため、止むを得ず、「彼が彼女【を】好きなのが問 

題だ」を使わざる得ない状況があるのも、今日の日本語の置かれた状況であるのは否定できない。


だが、文法的整合性から言えば、方言ではまだ生きている動詞「好く」を共通語の日常語として再度組み入れていくのが、最良の解決策なのであろう。


即ち、

「彼【が】彼女【を】《好いている》の【が】問題だ」 

となる。


「【が】好き」の【が】が指し示すのは、「現象や感情を生起する(生じさせる)主体となるもの」である。ここで言う「現象」とは、自然現象に象徴されるように、


(A) 「人間の恣意の入る余地の無い現象」「人間の力では制御できない、在るがまま、起こるがまま認めるしかないと認識される事柄」〔文例:雨が降ってきた。〕、 そこから


(B) 「他者の恣意の入る余地の無い紛れも無い事実」「第三者の人間の力では在るがまま認めるしかないと判断される厳然たる事実」〔文例:彼がやって来た。〕にも援用される。


日本語のガ格は英語などで言う主格に似通った点はあるが、以上のような日本語独自の性格を見過ごしては、「日本語の自律性」そのものを無視することになり、延いては「言語の命」を損なうことになりかねない。


日本人の「自然への畏怖」が日本語の自律性の所以(ゆえん)を解く鍵だった。


写真は、サグラダ・ファミリア(Sagrada Familia)「受難のファサード」をバックに。今日も、つい立ち寄り、魅惑されてしまう。

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