日本語教育・日本語そして日本についても考えてみたい(その2)

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バルセロナから(2018年9月24、25日) : 「おいしい【だ】」はなぜ非文か?

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バルセロナから(2018年9月24、25日) : 「おいしい【だ】」はなぜ非文か?


「おいしい。」

日本語では、これで文として成り立っているのである。


じつは日本語の形容詞(日本語教育では「イ形容詞」)は、その内部に「英語のbe動詞に当たる働き」も持ち合わせている。


従って、日本語の形容詞の後には、英語のbe動詞に当たる働き持つ助動詞【だ】や【です】を付け加える必要がない。

日本語では、「形容詞+【だ】又は【です】」はbe動詞が二つ続いているようなもので、本来なら文法的には成り立たない。


一方、形容動詞(日本語教育では「ナ形容詞」)に【だ】が付いた形を見ると、例えば「静かだ」は語幹「静か」が名詞的性格を持っているので、【だ】が付くのは文法的に理にかなっているのだ。


しかし、「おいしい」を丁寧に言うと、最初に紹介した「おいしゅうございます」となり、何か大げさな表現になってしまう。そこで、ちょっとだけ丁寧に言いたい時の表現が求められて、「おいしい【です】」という言い方をする人が出てきて、その便利さに多くの人が飛びつき、徐々に広まっていった。


つまり「おいしい【です】」の【です】には、

be動詞の働きではなく「丁寧」の意だけを添える役割を果たさせているのである。


昭和27年の国語審議会でこの現象が論議になり、「形容詞+です」の言い方が、もはや無碍(むげ)に却下できないほど広がっている実情を鑑みて、「認めてよい」ということになった経緯がある。一方、「形容詞+だ」の形である「おいしい【だ】」は共通語では認められていない。


形容詞と【だ】【です】の過去形・否定形・そのバリエーションとの相性を見ると、


〇「おいしいです」、×「おいしいでした」、×「おいしいだ」、×「おいしいだった」、×「おいしいじゃ(では)ない」、×「おいしいじゃ(では)ありません/おいしいじゃ(では)ないです」


という結果になる。(〇は現在使われている表現。×は使われていない表現)


そこで、「形容詞+です」だけは、「大げさでない丁寧さ」を持った形容詞表現として、例外的存在になったのである。


もっとも、「おいしい【でしょう】」という表現は「おいしい【です】」以前から使われていたことを考えると、将来的には例外が2つから3つ、4つ、と地すべり的に解放される日が来ないとは、誰も断言できない。


もし、「おいしい【です】」が認められるのなら、その普通体「おいしい【だ】」も認められるべきだ、としてしまうと、あとは堰(せき)を切ったように歯止めなく、上に挙げた「おいしいでした」「おいしいだった」も認めなければならない羽目になるだろう。


とくに「おいしいでした」は、「おいしいです」を良しとする現状において、その過去形がなぜ駄目なのか説明がつかない。現状では「おいしかったです」が使われいるが。


いずれにしても、日本の学校教育において日本人が、国語である日本語を体系的に学ぶ仕組みが構築されて来なかったことが、すべての戸惑いの源だろう。


即ち、日本の国語教育の「世界の中の一言語としての日本語」に対する姿勢が問われているのである。


写真は、バルセロナのメルセ祭(La Mercè)での「人間の塔」(Castellers) 。体力のある大人たちが土台となり最後に一番小さな子供が人間の塔をスルスルと頂上まで登っていく。そして、幼きヒーローは大歓声と拍手の中で片手を上げ、人生最高の瞬間を味わうのだ。

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