バルセロナから(2018年9月6、7日) : 日本語に対する「無知無感覚」
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バルセロナから(2018年9月6、7日) : 日本語に対する「無知無感覚」
志賀直哉は更に続ける。
「世界で一番いい言語、一番美しい言語、フランス語を国語に採用する英断をするべきだと思う」と。だが、その根拠は叉も一向に示されないまま「外国語のことはよく知らないが、フランスは文化先進国でもあり、小説や韻文でも日本と共通のものがあると云われる」と結論づけてみせる。
この論を何度読んでも、志賀の言う「国語フランス語化」の正当性の根拠は見当たらない。ただ、この高名な作家の「言語」というものへの不明ぶりが目立つだけである。志賀はその著作『小僧の神様』から「小説の神様」とまで言われた文章家である。
言語学者、鈴木孝夫は『閉ざされた言語・日本語の世界』(新潮選書、昭和50年)の第一章「日本人は日本語をどう考えているか」で志賀の国語フランス語化論について述べている。 《私は志賀のこの随筆風の論文を読んで、これまで幾度となく、いろいろな人、それも著名な人によって唱えられてきた《日本語不完全論》の一つの典型をここに見た気持ちがした。
私の考えでは、この論文には二つの重要な問題が含まれている。
第一は志賀が、母国語、ひいては言語と言うものが、それを使う人にとって、どんな意味があり、どのような深いつながりを持っているものかについて全く無知無感覚であるということ。》 鈴木は言葉を扱うプロであるはずの志賀が言語・日本語とその話者との関係に「無知無感覚」であると断定する。
志賀直哉に見られるような、日本語に対する「無知無感覚」は、言語・日本語の専門家の集まりであるはずの日本語教育界にさえ見受けられるのは、この問題の深さを暗示している。
写真は、日本語・日本文化を愉しむ仲間たちと。