日本語教育・日本語そして日本についても考えてみたい(その2)

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バルセロナから(2018年1月25日) : 1990年「南米ひとり旅」ノリエガ将軍逮捕 (2) ついに南米にアディオス <写真: ヘリから見たイグアスの滝(2)>

バルセロナから(2018年1月25日) : 1990年「南米ひとり旅」ノリエガ将軍逮捕 (2) ついに南米にアディオス <写真: ヘリから見たイグアスの滝(2)>



パナマのノリエガ将軍逮捕でアエロ・パナマの航空券を持っていた私は、その変更を余儀なくされ、手続きのためにペルーでリマ空港からアエロ・パナマの本部オフィスまでタクシーを飛ばして来た。



空港のアエロ・パナマの責任者の言質(げんち)を取り、この本部オフィスから支払われるはずのタクシー代を運転手とともに待っていたが、奥の部屋で誰かと相談していた女事務員は我々の前の席に着くなり、「そんなお金はどこからも出て来ない」と言ったきり黙ってしまった。すると、いかにも気弱そうなその運転手は、もういいよ、という顔をして何も言わず外へ出て行ってしまった。万事休す。私も、銃を構えた警備員の脇を潜り抜けて外へ出た。



  運転手は心配そうに私を待っていた。そして、「私が馬鹿だったんだよ」とポツリと言った。私は彼のタクシーに乗り込み、三か月前に利用したリンセ地区のホテルまで走ってもらった。


 彼は「まったく、この国の奴らはどいつもこいつも恥知らずだ」と吐き捨てるように言った。私はタクシーを降りるときに、多めの料金を彼の手に握らせた。彼は、疲れ切った顔を見る見る紅潮させ、私の両手を握り日本式の礼を繰り返した。


  


その三日後、午前四時発のメキシコ行きのアエロ・ペルーの便にようやく乗ることができた。これとて予定より三時間遅れである。だが、ホッとしたのも束の間であった。我々を乗せた飛行機は確かに滑走はしたが、地べたを這って元の位置に戻って来ただけなのである。乗客は詳しいことは聞かされないまま、またぞろぞろと控室に入り、そこで初めて事情を説明された。乗務員たちのストだと言う。つまり、客を乗せて出発させるところまで彼らは仕事をした、という組合戦術なのだろう。



 ストが解除されるまで、あるいは他の航空会社の便に変更されるまでホテルで待機しなければならなくなった。客たちは困った顔こそしたが、いきり立って騒ぐ者はいない。なんとも鷹揚(おうよう)なものである。私も日本を出てからこういう場数を踏んで来たせいか、かなり我慢強くなってはいたが、やはり日本人の性急さを思わざるを得ない。ラテン系に限らず、欧米の人々も他人の権利には頗(すこぶ)る寛大な態度を示す。



 約一週間、私は航空側の用意したホテルに缶詰めになり、ひたすらメキシコ行きの切符を手に入れるために航空側と連絡を取り、交渉する毎日を送った。下手に外へ出歩くと、その間に他の客に航空側との交渉権を取られてしまいかねなかった。おかげで私はホテルのホール付きのボーイにペルーの四方山話をたっぷりと聞く機会を得た。



 その頃ペルーでは大統領選挙が告示され、あちこちに候補者の大きなポスターが貼られていた。ボーイが外を指して


「ああいう連中も、もう姿を消すよ」と鼻をうごめかせて言った。路上で客を掴まえる両替屋たちも次の大統領によって綺麗に掃除されるだろう、と言うのだ。彼は次期大統領を作家のバルガス・ジョサ氏だと予想していた。日系のフジモリ氏は、この時点ではまだ泡沫候補の一人にすぎなかった。


  “優雅”で退屈なホテル軟禁生活から解放された日、今度こそ地上を離れた飛行機の中で私は、ノリエガ、ノリエガ、と呪文を唱えた。



パナマのノリエガ将軍逮捕でアエロ・パナマの航空券を持っていた私は、その変更を余儀なくされ、手続きのためにペルーでリマ空港からアエロ・パナマの本部オフィスまでタクシーを飛ばして来た。



空港のアエロ・パナマの責任者の言質(げんち)を取り、この本部オフィスから支払われるはずのタクシー代を運転手とともに待っていたが、奥の部屋で誰かと相談していた女事務員は我々の前の席に着くなり、「そんなお金はどこからも出て来ない」と言ったきり黙ってしまった。すると、いかにも気弱そうなその運転手は、もういいよ、という顔をして何も言わず外へ出て行ってしまった。万事休す。私も、銃を構えた警備員の脇を潜り抜けて外へ出た。



  運転手は心配そうに私を待っていた。そして、「私が馬鹿だったんだよ」とポツリと言った。私は彼のタクシーに乗り込み、三か月前に利用したリンセ地区のホテルまで走ってもらった。


 彼は「まったく、この国の奴らはどいつもこいつも恥知らずだ」と吐き捨てるように言った。私はタクシーを降りるときに、多めの料金を彼の手に握らせた。彼は、疲れ切った顔を見る見る紅潮させ、私の両手を握り日本式の礼を繰り返した。


  


その三日後、午前四時発のメキシコ行きのアエロ・ペルーの便にようやく乗ることができた。これとて予定より三時間遅れである。だが、ホッとしたのも束の間であった。我々を乗せた飛行機は確かに滑走はしたが、地べたを這って元の位置に戻って来ただけなのである。乗客は詳しいことは聞かされないまま、またぞろぞろと控室に入り、そこで初めて事情を説明された。乗務員たちのストだと言う。つまり、客を乗せて出発させるところまで彼らは仕事をした、という組合戦術なのだろう。



 ストが解除されるまで、あるいは他の航空会社の便に変更されるまでホテルで待機しなければならなくなった。客たちは困った顔こそしたが、いきり立って騒ぐ者はいない。なんとも鷹揚(おうよう)なものである。私も日本を出てからこういう場数を踏んで来たせいか、かなり我慢強くなってはいたが、やはり日本人の性急さを思わざるを得ない。ラテン系に限らず、欧米の人々も他人の権利には頗(すこぶ)る寛大な態度を示す。



 約一週間、私は航空側の用意したホテルに缶詰めになり、ひたすらメキシコ行きの切符を手に入れるために航空側と連絡を取り、交渉する毎日を送った。下手に外へ出歩くと、その間に他の客に航空側との交渉権を取られてしまいかねなかった。おかげで私はホテルのホール付きのボーイにペルーの四方山話をたっぷりと聞く機会を得た。



 その頃ペルーでは大統領選挙が告示され、あちこちに候補者の大きなポスターが貼られていた。ボーイが外を指して


「ああいう連中も、もう姿を消すよ」と鼻をうごめかせて言った。路上で客を掴まえる両替屋たちも次の大統領によって綺麗に掃除されるだろう、と言うのだ。彼は次期大統領を作家のバルガス・ジョサ氏だと予想していた。日系のフジモリ氏は、この時点ではまだ泡沫候補の一人にすぎなかった。


  “優雅”で退屈なホテル軟禁生活から解放された日、今度こそ地上を離れた飛行機の中で私は、ノリエガ、ノリエガ、と呪文を唱えた。


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