日本語教育・日本語そして日本についても考えてみたい(その2)

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バルセロナから(2018年1月14日) : 1990年「南米ひとり旅」ペルー、フリアカ泥棒列車での貴重な?経験

バルセロナから(2018年1月14日) : 1990年「南米ひとり旅」ペルー、フリアカ泥棒列車での貴重な?経験


朝八時半、ペルー、クスコからプーノへ抜けるはずの列車に、私は飛び乗った。
 幾つもの駅を数え、いつの間にか夕闇に包まれ、眠気に襲われ始めた頃から車内の明かりは点いたり消えたりしていた。それが、フリアカの駅に着く頃には完全に消えていた。前に座席の乗客に訊いたら、もう午後九時を廻っていた。私の腕時計はバッグの中にしまってある。


 車内は人影がうごめくだけの暗闇である。
 「プーノ行きは乗り換えだ」
という声を聞いて、私はバッグを肩に掛けて立ち上がり、網棚のリュックを下ろそうとした。リュックは網棚にしっかり括り付けられていた。前の席の乗客が親切にもやってくれたことだ。


暗闇の中で目を凝らして紐をほどき、リュックを下ろそうとした、その瞬間、一人の男が私に抱きついてきた。右肩に掛けていたバッグが引っ張られたのを感じ、私はバッグに手をやった。軽くなったそれは横をコの字型に切り裂かれ、中の貴重品入れがなくなっていた。


私は抱きついてきた男の首の根を掴まえて、
 「泥棒だ!」
と大声で繰り返した。やがて警官がやって来た。私と警官は男を連れて列車を降り、フリアカ駅の交番に行ったが、案の定、男は何も持っていなかった。私の貴重品入れは、この男の一味の手から手へ、あっという間に苦も無くリレーされていったのだろう。


主任らしい警官が、
 「パスポートは戻ってくる」
と自信有り気に言った。果たして、間もなく一人の少年が私の貴重品入れを持って現れた。大人の人にここに持って行くように言われた、と言う。パスポートと身分証明書等は残っていたが、あとはきっちり抜き取られていた。駄賃をねだるその子を問い詰めても、らちの明かない事だった。トラベラーズチェックはほとんどリュックの中だったのが、せめてもの救いだった。旅は続けられる。


「ここは第三世界だということね。どうして日本からわざわざこんな所に来たの?」
 婦人警官は責めるように私に言った。
 「とにかく今晩中にプーノに行きたい」
 私は一刻も早くフリアカを出たかった。交番の時計はすでに夜の十時を過ぎていた。


警官が手配してくれたタクシーは、しかし、出発してから五分も経たないうちに急停車した。パンクだと言う。フリアカに着く頃からすべてがうまく出来過ぎている。


 列車内の停電、リュックを網棚に結びつけてくれた親切そうな前の席に乗客、警官と捕らえた男との芝居がかったやりとり、そして、深夜のひと気のない道でのパンク…… まさに「ようこそフルアカへ」という歓迎振り! だ。


 私はすぐに他のタクシーに乗り換えた。この時間は危険すぎる、と尻込みする運転手に頼み込み、ほとんど灯りのないジャリ道を真っ直ぐプーノ目指して走らせた。車は重い沈黙を乗せたまま、ひたすら闇を走り続けた。時折向こうから大型トラックが通り過ぎ、砂塵を舞い上がらせて行くだけだった。


プーノのホテルに無事着いたあと、私はベッドの上に身を投げ出し、深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。


写真はプーノの神秘的な美しさを湛(たた)えるチチカカ湖。

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