日本語教育・日本語そして日本についても考えてみたい(その2)

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バルセロナから(2018年10月14、15日) : 「できる」はなぜ「出来る」と書くか?

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バルセロナから(2018年10月14、15日) : 「できる」はなぜ「出来る」と書くか?


日本語の自動詞・他動詞の研究は江戸時代の盲目の国学者である本居春庭の『詞八街(ことばのやちまた)』が有名であるが、その自動詞・他動詞の概念は英文法のTransitive(他動詞)・Intransitive(自動詞)とは異なると考えたほうがいい。


Transitiveと"In"transitoveの単語の構成を見れば分かるように、英語やスペイン語ではまず他動詞(Transitive)があって、それに対応するものとして自動詞("In"transitove)が挙げられている。


ところが日本語では、「自動詞・他動詞」、動詞の「自他」、と言うように、まず自動詞があって、そうではないもととして他動詞が挙げられる。動詞の自他における元々の発想が逆なのである。


日本語においては「自然とそうなる」「自ずからそうなる」という動詞の働きが重視される所以がここに暗示されている。


日本語の「自動詞」とは「自ずから動く詞(ことば)」である。つまり、他のものを動かしたり影響を与えたりするのではなく【自ら動く】、のである。


英語の"can"に訳される日本語の「できる」は「出来る」と書くが、これは決して当て字ではない。「出来る」は「出る」と「来る」の複合語であり、まさに「出て来る」のだから典型的な自動詞である。


「私は日本語が《できる》」と言えば、「私においては日本語が《出て来る》」という発想で、「私」にではなく、能力発揮の対象に見える「日本語」に主体を指す「が」が付く。


つまり、日本語の発想は「私」が能力をコントロールするのではなく「日本語」そのものが、「自(おの)ずから」そして「自(みず)ら」、私に「出て来る」のである。


物事が「できる」のは、ちっぽけな人間の恣意的な能力からではなく、その物が持っている自然界の自律性が持つ生起性(自らが生じ起こる力)から成就する、と捉えるのである。


これが日本における先人たちが、今日「自動詞」と呼ばれる言葉の根源に持っていた発想であることに、改めて想いが致る。


写真は、グエル公園(Parque Güell)の巨大なカリントウを思わせる柱群。自然の力を感じさせるガウディの遊び心が如何なく発揮されている。

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